2019年11月3日未明に、ドラマー秋保太郎が亡くなった。自分は太郎君のごく一部しか知らないが、それでも彼のことを書いておく。
私にとって太郎君はドラマーであり、欧州車のエンスージアストである。彼との邂逅は1990年代で、当時自分が参加していたバンドのトラ(代役)ドラマーとして、である。バンドメンバー佐藤哲の知り合い(大学の後輩)ということで呼ばれたのだった。最低限のリハーサルしか行えなかったが、太郎君は見事に太郎君しか叩けないドラミングで音楽に参加してくれたのだった。
実はそれ以前に、佐藤哲が誘ってくれたあるライブが太郎君のドラムとのファーストコンタクトではあった。そのバンドはシャバダバ・エレクトロというふざけた名前のユニットで、キーボーディストの菅原琢さんやボーカルの菅田かおりさんとともに、ステージで暴れ太鼓を叩いていたのが太郎君だった。この時のライブは自分にとってかなりショッキングなものだった。個々人の技能が優れていたことはもちろん、選曲も「もしオレがそれ演れって言われたら、演れっかな…」という高度なもので、一言で言えば「仙台にこんなバンドがいたのか!」だった。手数が多いだけではない、緩急自在、ダイナミクスの豊かなドラミングを披露する太郎君にひたすら衝撃を受けた記憶がある。後日佐藤哲は「服部は会っておいた方が良いと思って」と誘ってくれた理由を話してくれたが、琢さんやかおりちゃんとは今も交流があるのだから哲の隻眼もすごい。
その後さとう智文君というシンガーソングライターのバックバンドに誘われ、ドラマーとして太郎君を指名したのは何を隠そう服部である。いや、隠す必要はないのだが。そこでも太郎君は影のバンドマスターとして活躍をしてくれた。
その後単発のイベントに参加するためのいくつかのバンドに太郎君を誘った。それらのバンドは決まって歌ものを演奏するバンドだった。特に仙台市青年文化センターの自主企画として開催されていた、MUSIC Aliveというシリーズもののライブ企画に出演した80年代洋楽バンドや70年代J-POPバンドが印象深い。グッと年代が新しくなって、陽の当たらないアニソン専門バンド「アニソン・デパートメント」なんてのもあった。いや、どれもこれも根気入れてレギュラーで続けていればよかったな。初めて自分のパーマネントバンドを作った時も、敢えて歌ものに通じるドラミングが欲しくて太郎君を誘った。
太郎君は東京でスタジオミュージシャンとしても活躍していたので、プロのスタジオレコーディングのノウハウも豊富に持っていた。レコーディングワークショップに叩き手として参加してもらったこともある。さりげないアドバイスや経験談がどれだけ参考になったか知れない。前述のさとう智文君のファーストアルバムのレコーディングでは、エンジニアリング初心者の私をさりげなくサポートしてくれたし、別プロジェクトの私のソロ曲でも決定的にぴったりはまる演奏をしてくれた。
という事例をいくつも書いてきておわかりいただけるように、彼はドラムを叩いてそれでおしまいというドラマーではなかった。優れたミュージシャンが皆そうであるように、担当する専門楽器の演奏以上のものを音楽にもたらしてくれる。太郎君のフィル一発で場面がガラッと変わる。それは同時に高いところから音楽を捉えているからこその演奏でもあった。要はプロデューサー気質なのだ。極端な話、「こういう曲をそういう風に演りたいなら、ドラムは自分じゃない方がいい」などと言い出しかねないドラマーだった。太郎君が一時期心血を注いでいたFourstepsというバンドのファーストアルバムのミックスダウンを3曲頼まれた時は、「好きなようにアプローチしてください」とだけ言って素材を手渡された。太郎君がそういうなら…と本当に好き勝手ミックスしたところ、大枠ではOKを出してくれたが、細部の作り込みにかける熱量が凄まじかった。「そんなところまで??」と(口には出さなかったが)思えるところまで、とことん突き詰める。あれは完全にプロデューサー脳によるチェックであった。
だからこそでもあろう、彼は他人の演奏にも厳しかった。自分にとって益のない演奏しかできないミュージシャンとは、距離を置くようにしていたように思う。つまり太郎君が話に乗ってくれないとしたら、それはスケジュールの都合云々よりも、「アンタとやっても楽しくない」という最後通告だったように思う。だから太郎君に声をかけられると嬉しかった。
太郎君は凝り性だった。音楽はもちろん、私が知る限り、特定の年代のアニメーションと欧州メーカーの自動車については恐ろしい知識量だった。特に後者は知識だけではなく、実際にクルマを所有し、特有のトラブル事例に強かった。クルマの運転が好きで、印象的な話だけでも、「そばを食べたくなって仙台から長野県まで行ってきた」とか、「修理からあがったので調子を確かめようと走っていたら山形県酒田市にいた」しかも「冬の酒田でO2センサーが故障してエンジンがかからなくなった」とか、「オーバーホールから上がってきたので、仙台から京都まで往復してきた」とか、尋常じゃない走りっぷりなのである。しかも酒田や京都の案件はアルファロメオの916スパイダーで、である。916スパイダーは90年代の傑作車両だが、操縦にはクセがあって、現代の自動車とは違う気の使い方が必要になる。あのスパイダーは数回運転させてもらったことがあるが、00年代以降のクルマばかり運転している私には、なかなかのクセモノだった。加速も旋回も制動も、なんだかいつもよりも身体を使う仕事になってしまうのだ。
ことほど斯様に、太郎君は徹底して物事に向き合う人だった。近年はミュージシャンとしても生物海洋学者としても後進の指導に当たることも多かったようで、太郎君の教え子は仙台のあちこちにいる。誰からも慕われていた彼が、どうして急逝しなければならなかったのか、いまだに納得がいかない。2019年12月29日に有志でお別れ会のような、偲ぶ会のようなイベントを開いた時、何人かの人から「太郎ロス」という言葉を聞いた。太郎君は高い次元で音楽を捉え、高度な演奏テクニックを持っていたのだから、そう容易にエキストラが見つかるわけがない。90名近くが参加したそのイベント「太郎会」の会場で、私は素直に太郎君に嫉妬した。「オレが死んだらこんなイベントが開かれるだろうか」と考えたのだ。開かれないだろう、多分(笑)。太郎君にそう言ったら「こういうイベント開いてくれるよりも、生きてたかったですよ」と言うに決まっているけれど。これからは太郎君というマイルストーンを、いくつ超えられるかという覚悟で音楽に向き合うしかない。いつか自分が死んだらあの世で太郎君と演奏したいが、きっとあの世でも叩き続けて上達しているだろうから、あの世でも声をかけてもらえるように、せいぜいがんばっていくしかない。